アーカイブ: 2017年11月5日

護王神社の亥子祭

平安時代頃から御所では、旧暦十月亥月亥日に無病息災を祈念して搗かれたお餅は「亥子餅」と言って

珍重されました。

その儀式を、護王神社では現在も、十一月一日に続けて居られます。

5時からの神事は人数限定なので、4時に行って先ずは申し込み。

 

お供えをしてからデンチと提灯とお下がりを頂いて待機します。

神事のお手伝いをする女性が現れました。ここでは「奉仕女房」と呼ばれています。

五時から本殿で拝礼が始まりましたが、我々からはよく見えないので、大スクリーンに写されています。

その後拝殿で、5人の女房が紹介されて、神官が座してから、臼、杵、三種の粉(黒の胡麻、赤の小豆、白

の栗)竹の水筒2本、四種の草(銀杏、野菊、紅葉、軒しのぶ)を、実にゆっくりと運んで、式司の前に並

べます。

その間、式司と神官は「神奈月時雨のあめのあしごとに我がおもふことかなへつくつく」と朗詠します。

 

5人の女房が2回ずつ往復して、30分ほど掛けて全ての物が揃い、いよいよ亥子餅が搗かれます。

こうして三臼搗かれるのですが、その間は男神官は「いのちつくつかさ」女房は「いのちつくさいわい」

と唱和し続けます。

搗き上がった餅は、本殿に備えられ、もう一つは唐櫃に納められて、御所へ行く支度となります。

 

預かっていた提灯の灯を、巫女さんから貰って、50人ほどの「調貢列」の後に付いて御所に向かいます。

提灯行列は150人くらいでしたね。

女房には一人ずつ「お付き」が

蛤御門から入って、真っ暗な御所の砂利道を15分ほど歩いて「清所門」に。

ここから先は、調貢列の人達だけしか入れず、我々は門の外から献上の様子を遠目に見るだけ。

十二夜の月と、清所門と、提灯

無事に御所へ「亥子餅」献上を終えて護王神社に帰ると沢山の灯りが点いていて、境内に入ると全員にお

でんが振る舞われて、暖まりました。

これからは大きな臼でお餅つき。ここで搗かれた亥子餅はみんなに配られます。

家からすぐ近くで、こんなに厳かな神事が行われていたのに、この歳になって初めて参列出来ました。


明倫小学校

僕も子供達も孫達も通った「明倫小学校」は、少子化の影響で、建物こそ「芸術センター」として残されていますが、もう子供達は通学して

いません。

でも、かつて明倫校に通っていた地域は「元明倫学区」として3000人程の人が生活しています。

その明倫について、京都新聞に興味有る記事が掲載されていました。

事実かどうかは不明ながら、洛中の人は気位が高いという話しは、何度か聞いた事が有ります。

しかし、我々明倫学区民はそのまだ上で「鼻が高い」「自惚れが強い」とは・・・。

自分達も周りの人達を見ても、決してそんなには思えないのだが。

他からはそのように見えるのかな。それなら、充分に注意して控えないと。