いろいろな土地の、風俗習慣を知るのも、旅の楽しみです。
念願の、宜野湾クルージングが実現して満足した3人は那覇空港へ。
四日間、自分の車でいろいろと案内してくれたオーナーさんが、送ってくれました。
彼はまだ数日間残って、一人で楽しむそうです。
最後まで親身にお世話してくれた「noboru」号のオーナーさんありがとうございました。
早めに着いたのでラーメンを食べに入った店で、琉球の民族衣装の兄ちゃんが。
スカイマークは手続きが簡単。20分前にでも発券機にQRコードをかざせば座席表が出るので、好きな席をマー
ク。すぐに搭乗券が発行されるので、そのまま乗れます。
往路は雨で景色はダメでしたが、帰りは綺麗に見えます。
雲海の上を飛ぶこと100分で、神戸空港着。往路よりも50分短縮でした。
こうして、沖縄でクルージング計画は、数時間だけでしたが実現出来ました。
余談
沖縄の家屋の前によく置かれている「シーサー」これの謂われを初めて知りました。
右が大きく口を開いた雄で、福を沢山吸い込む。それを、左の雌がしっかり口を閉じて逃がさないようにしている。
また、沖縄のT字路や三叉路に必ず掲げられた「石敢當」の文字は、魔物が入ってこないようにとのことです。
いろいろな土地の、風俗習慣を知るのも、旅の楽しみです。
いよいよ、沖縄滞在の最終日も朝からシトシト雨なので、クルージングは諦めた。
そう決めた直後から晴れ間が見え始めたので、急遽乗船させて貰う事に変更。
マリーナに来ると青空が。エンジンの点検をして、いよいよ出港です。
マリーナの突堤を出ると、一面に綺麗な海が拡がりますが、水面下は珊瑚礁ばかり。
パソコンのGPSを開いて、僅かな隙間の深い水路を探りながら沖へ出ます。
ちょっとコースがそれると、水深1メートルから5メートルなので、慎重に低速航行です。
航跡を見ると、予定通りのギリギリの水路を通過出来て居ます。
有り難いCmapのサポート。
珊瑚礁を過ぎると安心、のんびりと宜野湾の街を眺めながら航行。
オーナーさんは、このポーズで43日間を掛けてここまで来たのです。
やっとヨットに乗れた満足で、いよいよ帰る支度をして、空港に向かいます。
その前に、空港近くの「旧海軍司令部壕」を見分する事に。
悲惨な沖縄戦の作戦は、全てここから発せられて居たのです。
兵士が人力で掘り巡らした壕
最後に幹部が自決したときの手榴弾の跡
司令官が自決した20年6月13日に残した電報。
兵士と沖縄の人が如何に大きな犠牲を払ったかを記しています。
知覧の特攻隊記念館でも痛切に感じました。
とにかく、戦争だけは避けないと。
3日目は、とてもあがりそうに無い降り方の雨。
ダイナモ、バッテリー、セルモーターの点検修理を2.3時間お手伝い。
その間に、宜野湾ヨットハーバーのアチコチを見学出来ました。
マリーナに居た女の子が、豚の「ツラ」を持って「これからみんなで食べまーす」
昼過ぎにマリーナを出て、北に向かいました。
瀬底島大橋を過ぎれば「美ら海水族館」は間もなく。
ひっきり無しに降る雨の中、世界最大級の水族館を楽しみました。
回航の終盤、やはりこの沖を通過したときに、大きな建物が確認出来たそうです。
4層に別れた館内は、さすがに大勢の人です。中国語もいっぱい。
ハタ、じんべえざめ、マンタ、海老、うつぼなど、ビッグなものばかり。
深海生物も、見やすく展示されています。
こんなのが海に居るのです。ダイオウイカの標本も有りました。
3時間くらい回りましたが、とても全部観られず。あと3時間は必要です。
また来られるかなあ。
水族館に最終まで居たので、ホテルに戻ったのは8時過ぎ。それから4人で最後の晩餐。
ここも美味しくて安いので、みんな御機嫌です。
特にオーナーさんは、贔屓の酒「白雪」がメニューに有ったので大喜びでした。
こんなに吞んで食べてが続いたら、当然ウェイトが・・・。
午後から晴れてきたので、ヨットに乗る選択も有ったけど、宜野湾マリーナまで戻る時間が勿体ないので観光を
継続する事にして「残波岬燈台」へ。
友人のヨットが、浜松から43日を掛けてこの岬へ差し掛かったのが42日目で、ひときわ綺麗に見えたらし
い。その日は恩納村漁港に泊まって、43日目に宜野湾に入って長旅の終わり。
オートパイロット、GPS、セルモーター無しで、シングルハンドで、25フィートの船齢は35年以上。
ヨットに慣れた自分でも、とても出来ない快挙です。彼はヨット歴4.5年。
200円を払って、燈台の上まで上がると凄い眺望です。
この日のラストは小高い公園から「普天間基地」見物。
オスプレイが20機以上で、その他にもヘリや戦闘機がたくさん。
滞在4日間の間、絶えず爆音が聞こえてましたから、落下物はホントに怖いと思います。
この赤いマークの処から見ました。ちょっと遠かったのでカメラの望遠はめいっぱい。
すぐ傍には、日本軍のトーチカ跡が保存されていました。
銃口は二つ。片方は破壊されて拡がって居ます。
この場所だけでも、日米双方に凄い数の戦死者が出たと思われます。
京都出身の犠牲者2530人の慰霊塔「京都の塔」は、立派な造りでした。
この日の夕食は、ホテル横の居酒屋で、3000円で3時間飲み放題。
19年前に来たときは、ヨットハーバーの周りは寂しい処で、店舗なんて無かったのに、今はスーパーや飲食
店がいっぱい有ります。
燗酒も冷酒も美味しかったし、この3000円は値打ちが有りました。
「のぼる」号のオーナーと、ゲストの爺さん3人。
2日目の朝は、ホテルバイキングで、またまたたくさん食べてしまった。
この時期、なかなか晴れないらしい。今日も雨模様なので、島内観光に出る事に。
「やちむんの里」(焼き物の里」)へ行って、大きな登り窯に驚き。
数軒の窯元が管理しているらしいが、余りに大きくて、今では各家に電気窯を持っていて、これは年に一回しか
使わない。
読谷山焼の窯元が協同で、販売所を設けているのでいろいろな種類の作品が見られます。
表 裏
宮城光成さんの御飯茶碗が、余りに綺麗だったので思わず購入。2000円。
稲嶺盛吉さん
すぐ傍には、大きなガラス工房が有り、5人の人が黙々と作業していました。
稲嶺さんは、名の知れたガラス職人さんです。
孫達を連れてのスキーは、暫く行って無いところへ、19歳と20歳の二人の孫からのお誘いが来たので3人で
出掛けました。
距離は、琵琶湖バレイなら40キロくらいだから近いけど、この日は強風でクローズ。
国境と箱館山のうち、箱館を選びました。あとまだ30キロ先です。
今津付近 安曇川平野
ここは、琵琶湖を見下ろせる景色が抜群なのも嬉しいです。
平日と有って、ゲレンデはガラガラ。実はそれを狙っては居たのですが。
ゴンドラもリフトも、1日じゅう待ち時間無しで、滑り続けるので、きついきつい。
二人の孫は「平気のへいざ」なのが羨ましい。
幼い頃から、一生懸命指導した孫が、こんな滑りをするように。
僕も負けずに、滑りながら動画に挑戦。
ガリガリとアイスバーンを削る音入りで、何とか無事に撮れました。
帰りのゴンドラからの眺望。いつもは、ヨットやボートで行く竹生島を山頂から見ます。
箱館に着いて、スキー靴を履いて、2.3歩歩いたところでパリンと言う音が!!!
なんと、靴が破裂したのです。
慌ててレンタルブーツを借りたので、1500円の損害です。
でも、今の板と靴は、21年前に40000円で買った物ですから、もう元は取れています。
問題は、これから何回行けるか判らないのに、靴を買うか?どうか?
一日目の夜は、国際通りを散策。中国語が飛び交って居ます。
国際通りから少し横に入ると、歴史の有りそうな市場が。
珍しい物ばかりが並んでいるので、いつまででも見とれて居ました。
市場の土産物屋さんから、軽快な三味の音が。
この辺りで不発弾が見つかって、この日の2日後に広範囲を立ち入り禁止にして処理が行われました。
那覇のメインストリートの国際通りでも73年前の痕跡が、未だ残っているのです。
遅めの夕食は、友人の行きつけの店で、安くて美味しくて沢山の料理を頂きました。
飲み放題なので、ついついみんなの酒量が進みます。
一日目は、吞んだくれ沖縄でバタンギユーでした。
昨年の秋に、大阪南部の堺市から奈良の葛城市まで続く「竹内街道」を散策しました。
先ずは「竹内街道歴史資料館」で、沢山の資料を拝見。
太古の昔から、堺市と飛鳥の都を結ぶ貴重なルートで有ったこの街道は、遠くシルクロードからの文化や風俗を何百年以上に渡つて使われて
きました。
そのなごりで、街道の沿線には、孝徳天皇、用明天皇、推古天皇、蘇我馬子、聖徳太子にまつわる史跡名勝が沢山点在します。
旅人の安全を守るお地蔵様が、幾つも
街道の宿だったか、立派な邸宅は改装されて「竹内街道交流館」に
近代的な建物に変わったところも有るが、今も昔の面影を残す街並みもそここに有ります。
立派な孝徳天皇陵は、静かです
葛城市の長尾神社が、竹内街道の終点です。
ここの扁額は、樫原神宮の宮司さんの書でした。