内子の「木蝋資料館」が余りに見応えが有ったので、纏めて記録してみます。
その昔、内子の街は「木蝋」で栄えました。その産業の中心が、上芳我家だったのです。
木蝋が衰退して、寂しくなった内子では有るが、この家屋だけは大切に残されて重要文化財とされている。
1800年代は、鬢付け油、口紅、色鉛筆、木工品のつや出しに、大量の需要が有ったので
この「上芳我家」では、大勢の人を雇用して生産して国内外に「和蝋」を出荷していたという。
店の間 旦那さん家族 丁稚さん
流し 竈門 井戸
このお屋敷の様子がよーく判ります。
文久元年の棟札
収獲したハゼの実を細かく砕いて蒸す。
それを絞って木蝋を取り出す
木箱に入れて日光干しをして、もっと白くする。
エントリーリスト メンバーが揃ったANDANTEさん
マリーナ雄琴カップは、家内と一緒にmugenに乗船です。
スタート前は無風ながら、何とか吹き始めました。
PICK Ⅵと、Tracerに続いて三番手をkeep。
風小僧さんとスライド
少しずつ風が上がってくるから、後続が有利に。
結局、mugenは三番のままゴール。
ゴールして、後続艇の走りを見ながら昼食です。
デイセーラーズ仲間の、YvetteⅡさん、ANDANTEさん、Angelinaさんがゴールします。
後には、小型艇が迫っていたからハンデ修正では不利かな?
3着ながら、後続艇にやわれて六位まで落ちてました。
まあまあ、楽しかったから良いか。
以下は、ゲスト乗船のHさんが、撮影、編集してくれた動画の記録。
朝日の輝く佐田岬漁港では、魚の水揚げが行われて居ました。
食べきれないほどの朝食。部屋は全て魚の名前。
何処から来たのか「どんぶらこ」と言うヨットが、出港してゆきます。ボンボヤージ。
青色発光ダイオードを発明した人は、この村の出身でした。
伊方、八幡浜、大洲を通過して内子の街の散策へ。
街中の路地に「内子座」が有りました。
20年くらい前に一度来ているけれど、廻りが大きく変わっていました。
セリ 廻り舞台 大見得を切ったつもりが小見得に!
でも、内子座自体は全く変わりなく貴重な劇場は創建当時(1916年)のままです。
今でも年に数回は、東京から一流の歌舞伎が公演に来るそうですが、セリも、廻り舞台も人力です。
このように立派な劇場が必要だったと言う事は、この街が如何に賑わって居たかが判ります。
次回に詳しく紹介する「木蝋の上芳我家」の隆盛も大きく関係しているようです。
貴賓席 一般席 後部席
桟敷席も、キチンと整理されて居て、当時の賑わいを彷彿とさせてくれます。
大向こうも、小向こうもちゃんと有ります。
さあ、そろそろ京都に向かわないと帰りが幾らでも遅れます。
ここから一気に高速を飛ばして、19時には無事帰京して
四泊五日の、別府湯けむりレース紀行は目出度く終えました。
レースから一夜明けて、琵琶湖組の4人は観光に出発です。
原尻の滝までは一時間。僕は何度も来ているが、初めての人も居るので見せてあげようかと。
次の「コウモリの瀧」は、瀧までの道が大変難しいとの事で、地元の友人が案内をかって出てくれました。
たしかに、僕らだけではとても判らない道でした。
〇立さん、案内をありがとうございました。
自宅まで連れて行って貰って、お土産まで頂いてすみません。
かってはこの水路を、荷物を積んだ船が竹田と犬飼の間を往き来したそうですが、鉄道が出来てからは遺構になりました。
9万年前に、阿蘇の大噴火が有り、原尻の滝、コウモリの瀧、沈堕の瀧などを始めとして
この地域の地形が大きく変わったそうです。
今日のうちに帰京する一人を、臼杵駅に送りましたら、今日行く予定ながら時間が押してきたので諦めた
「臼杵石仏」が駅前で見られました。良かった。良かった。
残った暇な3人は、予約しておいた佐賀関フェリーへ。
このフェリーに乗って四国へ渡ります。
よく荒れた豊予海峡ですが、ヨットでは無いので気楽に乗っていられます。
昨日のレースで、これくらい吹いたら、事故が起きたかも?
佐田岬の尾根には、数十機の風力発電塔が有ります。
70分で三崎港に着いて、今度は陸路で佐田岬灯台まで。
駐車場から灯台までは、徒歩30分は掛かるので時間切れ。
今夜の宿、佐田岬漁港の「大岩旅館」へ入りました。
ここは、ヨットで来たり車で来たりで、もう五回くらい来ていますが、とにかく魚が安くて美味しい。
ズラリと並んだ魚介は凄い
鍋には伊勢海老が
2食付き11000円で、またまた吞みすぎ食べ好きです。