アーカイブ: 2015年4月17日

5daysアートチャレンジ最終日

無事に最終日を迎えて、書き込んだ記事です。

5daysアートチャレンジもとうとう5日目、最終日です。
堅い話でしめたいと思います。
誰かからの聞き覚えでいつまでも心に残る「無財の七施」というお話です。
人は、いつも人に施す心を持つべきでは有りますが、施す余裕が無いと思われがちです。
でも、どんな人でも施しは出来るというのが「無財の七施」です。
「眼施」は、いつも良い眼差しで人に接すること。
「和眼悦色施」は、いつも優しい笑顔で人に接すること。
「言辞施」は、柔らかい言葉で人に接すること。
「身施」は、礼儀正しくひとに接すること。
「譲座施」は、人に譲ること。
「房舎施」は、人を招き入れること。
「心施」は、善の心で人に接すること。
この七施なら、地位も体力も財力も無い人でも、人に施しが出来ると言う教えです。
この教えに近づけば、少しずつ心臓が重くなり、その重さで閻魔大王が裁断を下すそうですから「天国、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄」の、なるべくよい処へ廻して貰いたいなあと、かすかに願っています。
その前に、三途の河を渡るのに必要な「6文銭」を、家内が持たせてくれないと、閻魔様の処へさえ行けません。
先ずは、家内に施しておかないと。

五日間、思いつくまま勝手に書き込みましたので、いろいろとご批判も有るかも知れませんが、ご容赦ください。
ありがとうございました。
明日からは、旧知の友人で、松田敏さんという、『(自称)社会の片隅で細々と暮らしている』方」が、引き継いでくれます。
現在、友達募集中とのことですから、松田さんの、5daysアートチャレンジへの書き込みを読んで、コンタクトを取って頂ければ喜ばれると思います。よろしくお願い致します。


5daysアートチャレンジの第4日目

4日目の記事。

5daysアートチャレンジの、第4目は「祇園祭」のお話です。
我が家は、昭和21年頃からこの地に住むことになり、父の代から祇園祭の山鉾34基のうちのひとつ「八幡山」のお世話を続けてきて居ります。
と言っても、当時はまだ29基しか無かったのです。
当時の「祇園祭音頭」では「29山鉾、19はあの娘」と唄われていました。
その後、昭和27年に「菊水鉾」昭和54年に「綾傘鉾」昭和56年に蟷螂山」昭和60年に「四条傘鉾」そして、昨年平成26年に「大船鉾」が次々に再建され、現在の34基になりました。
特に昨年は、150年ぶりに再建された大船鉾フィーバーの大盛況でした。
過去に存在した山鉾で、再建出来て無いのは「鷹山」と「布袋山」だけですが、両方とも再建までの道のりは遠いようです。
本来祇園祭の山鉾巡行は、八坂神社から御神輿がお出ましになる17日の「神幸祭」を歓迎する「先祭巡行」と、御神輿がお還りになるのを見送る24日の「還幸祭」を見送る「後祭巡行」とに別れていました。
それが、昭和41年に観光や警備の都合で、全ての山鉾30数基が17日に巡行する事になり、一昨年まで48年間続きました。
でも、いろいろな方面から「お祭り本来の、お迎え、お送りの意味合いに戻るべきだ」との意見が出始めて、何年もの間検討を続けた結果、昨年の大船鉾の巡行復帰と共に、先祭りに23基、後祭りに10基が別れて巡行する事になりました。
この分け方は、何百年も続いてきた17日と24日の分け方のそのままを踏襲しています。
八幡山は、後祭りに所属しているので、17日の先祭りは、町内を巡行する先祭りの山鉾を出迎えて拝見しています。
先祭りの山鉾が解体された頃、我々が組み立てに掛かり、24日の巡行に備えます。
平安時代の、貞観11年(869年)に、疫病の大流行に見舞われた京都で、御霊会を開いて祈願した事から始まった「祇園祭」は、歳を重ねるにつれて、大きく派手にしかも趣向を凝らされて、発展してきました。
しかし京の都は、何度もの大火や戦禍に遭い、その度に山鉾も消失しています。
でも、それらに屈する事無い町衆は、何度も何度も再建してきました。
現在の山鉾の殆どは、応仁の乱(1500)以後に再建されています。
八幡山でも、懸装品をみて居ると、天保、天明、宝永、寛政、安政に造られた物が多く有ります。
毎年7月には、それらの貴重な文化遺産をこの手で触らせて貰って、お山に載せて、晴れがましい巡行に参加出来る事に感謝、感謝です。
お祭りの準備は、年中何らかの行事や作業が有って、大変では有りますが、楽しみでも有ります。
今年も、八幡山が宵山3日間にお授けする「ちまき、鳩笛、鉢鈴、手ぬぐい、うちわ」の手配を終えたので、後は修理中の懸装品が出来上がってくれば万端です。
八幡山のすべては、HP「http://www.hachimansan.com/」で御覧頂けます。

萬木 寛次さんの写真
萬木 寛次さんの写真 萬木 寛次さんの写真
萬木 寛次さんの写真

5daysアートチャレンジ2日目 3日目

二日目は、こんな記事にしました。三日目は、4月13日にここのブログに書き込んだ物を記事にしました。

5daysアートチャレンジの、第2日目です。
何年か前に「日本一短い母への手紙」という本が発行されて、ベストセラーになり、その姉妹編として「日本一短い父への手紙」も発行されました。
その中に、沢山の感動が有ります。
折りに触れて読んでは、新しい感激をしています。
「父が、コップに残したビールは、父の残りの人生のようで寂しくなりました」
「事情は有ったでしょうが、やはり認知して欲しかったです」
「お父さん、気づいていますか、私とお父さん、二人の写真がまだ一枚も無い事を」
「退職の日に、飯おごったくらいで泣くなよ。俺、親孝行してないなって反省したぞ」
「まっすぐ歩けないよと言う父。頭の腫瘍とは言えず、眼鏡のせいよ」
「シベリアの看守と、泣いて別れたなんて、きっと良い人だったんだね。
「父さんにナイフを向けたあの時、父さんは笑っていた。悔しかった」
「帰宅が遅いとき、起きていてくれた父。黙って部屋の電気が消えました」
「臨終の義父さんが、たった一言-痛いよ-と言って しがみついた日、嫁から娘になりました」
「父さんと喧嘩した夜に泣きました。勝ってしまったから泣きました」
「残された借金は、残された家族みんなの団結に役立っています」
「いつも口うるさい父が、ほらみろと、一言言っただけ。離婚して帰ってきた夜に」
「父さんの仕事場を初めて見たとき母さんが言ってた。お給料、無駄遣いできないね」
「素っ気なく切ってしまった電話。今頃気づきました。お父さんの寂しさに。ごめんね」
「腕相撲でも始めて勝った。でも、父さんの顔を見て、やらなきゃ良かったと思った」
「父さんの愚かさを20年間言い続けた母さんの愚かさに気づきました」
「黄泉の国の父さん、母さんを呼ぶなよ。姉さんと必死で看病したんだからね」
親子の間には、目に見えない繋がりが有ります。
この本の中には、それを思い知らしめるものがいっぱいです。


5daysアートチャレンジに投稿その1

九州の人から、お誘いを受けて「5daysアートチャレンジ」として、フェイスブックに五日間続けての書き込みをする事になり、何とか無事に終えました。

これは、その初日の記事です。

北九州市若松区の、地域一番呉服店の3代目山本君からの御指名で「5daysアートチャレンジ」のバトンを受けました。何がどうなのか、判らないままに第一日目を始めます。
僕は、京都で呉服卸業を開業して45年になりますが、山本呉服店とは、当初から取引願っておりますので、先代は勿論、先々代さんからもずいぶんと御用命頂いて居ります。
京都では、呉服製造業者さんが、染工場に白生地を預けて着物を造ります。それを京都や、東京の大問屋さんに売り、大問屋さんから卸問屋さんに流れ、卸問屋さんから全国の呉服小売店に卸されます。
小売店は、お客様のいろいろな好みに合わせて、着物や帯を勧めて仕立てて、消費者に納められます。
勿論、商品の流れは複雑で、問屋さんをひとつとばしたり、何軒もの問屋さんを経由する事も有ります。
また、主な都市では、その地域だけの呉服店を対象に営業する地方問屋さんという立場のお店も有り、京都との取引が無い呉服店にも商品が供給できるシステムになっています。
経由問屋が、多くなっても価格がそんなに上がる事が無いのが???
西陣の帯もよく似た流れで、機屋さんで織られた商品が買い継ぎ屋さんに流れ、買い継ぎ屋さんから、卸問屋さん、地方問屋さんに流れます。
これらの帯も、経由する問屋さんが多かったり少なかったりの流れをする事が多々有ります。
我が「万商」はというと、規模が小さいため、製造業者とか機屋さんからの仕入れはなかなか難しいので、買い継ぎ屋さんや大問屋さんから、自店の取引呉服店さんに適した物を選び出して仕入れます。
過去は、地方によって好まれる柄や色が変わっていたので、万商では、九州、大阪方面に適した商品を入れて居ましたが、近頃では全国殆ど同じようなお好み傾向になっています。
この画像は、展示販売会の様子で、小売店が年に何回か、大きな別会場で日頃よりも多くの商品を集めて開かれる販売会の様子です。
ちなみに、衣桁に懸かっているのは「きぬたや」さんの総絞り着物です。
「そうだ、着物を買ってみよう」

萬木 寛次さんの写真 萬木 寛次さんの写真
萬木 寛次さんの写真 萬木 寛次さんの写真